宇土市の文化財シリーズ

大和忠三

中央公園の銅像


 正面左には


感謝のことば

 古今東西、先人の偉業を正しく評価して遺徳を偲び
顕彰することは美徳とされており、
これを後世に伝えることは、
次代を担う若者にとっては生きた教訓でもある。

このたび、元宇土市議会議長山内弘氏より、
氏の盟友であった初代宇土市長大和忠三氏の
業績を顕彰したいとの想いから
銅像を寄贈した旨の申し出があった。
市としては、
ご寄特なご芳志を有り難く
お受けすることとした。
ここに、宇土3万5千市民にかわり
深甚の謝意を表するものである。

平成7年1月吉日

宇土市長 西田誠


正面右には

碑文
 初代宇土市長大和忠三氏。
明治44年11月22日宇土町に生まれる。
昭和10年3月慶応義塾大学法学部を卒業。
昭和22年4月より宇土町議となり町議会議長を併せて
県議会議員となる。昭和29年4月宇土町町長に初当選
昭和33年10月1日町村合併により宇土市が誕生し、
初代宇土市長となる。
昭和57年4月まで6期24年間市長職にあった。
在任中は田園文化工業都市の建設に
全力をそそぎ力強い氏の発展につとめられた。
昭和36年6月国民健康保険功労者として知事より表彰
昭和38年10月には日赤役員として知事より表彰
昭和42年10月地方自治功労者として知事より表彰
昭和47年には藍綬褒章。
昭和59年4月勲三等瑞宝章を受賞された。
昭和60年6月4日逝去、享年73歳であった。
市は同年6月臨時市議会において
「名誉市民」の称号を贈り、同時に正5位に叙せられた。
ここに先生の徳を偲び偉業をたたえ、この像を建立する。

平成7年1月吉日

建立者 宇土市長 西田 誠
寄贈者 山内 弘
製作者 彫刻者 岩越末夫



新宇土市史よりP684

大和忠三 (1911-1985)

戦後、町議、県議を経て、1958(昭和29)年
宇土町長となった大和は、1958年(昭和33)年に
初代宇土市長に当選。以来、連続6期24年、
町長時代から通算すると実に28年にわたっって
宇土の市政を担当した。
その間、「文化的田園工業都市づくり」を
キャッチフレーズに、折からの
高度経済成長を追い風に、公営住宅建設、
工業誘致、道路整備、上下水道、市庁建設、
常備消防、農業近代化、教育施設、老人ホーム、
市民会館、体育館建設などの施策を、
強力なリーダシップで積極的に推進、
多くの業績を残した。
文字どおり宇土市の基礎を築いた市長といってよい。
アイデアマンのワンマン市長と見られがちだが、
合併後の各地区の融和には特に気を使い、
桜井知事に書いてもらった「大和一致」の
扇額を議場に掲げた。
1982年市長選挙で7期目を目指したが、
新人の田代捨己に敗れて引退。
公共私鉄の整備に力を注ぐあまり
財政赤字を拡大させ、
長期政権の弊害と併せて、
「借金財政の変革」を掲げた田代の
批判をはね返すことはできなかった。

1911(明治44年)年宇土新町1丁目の
地主の三男に生まれ、宇土中学から
慶応大学へ進学。
在学中、弁論部で弁舌の才を磨くとともに、
能楽の喜多見の実兄後藤得三の
直弟子となり、教授の免状をもらった。
卒業後は熊本市役所、
銀丁デパート業務課長を経て
白陽航空工機製作所を設立したが、
空襲で全焼。
戦後、地方政治家へ転じた。
多芸多才の人間味あふれる魅力的な人柄が
多くの人に愛された。朗々たる謡いの声は
晩年まで衰えず、
市長業のかたわら多くの弟子を育てた。
1985(昭和60)年没。73歳。
名誉市民に選ばれた。


ひと言メモ

確かに、宇土市を作ったという
偉業は評価すべきだと思う。

だが、

この碑に書いてあるほど、
後世には残っていない。

像を作るより、
資料を残すべきだったと
私は思う。

現在銅像は、
宇土庁舎を見上げている。
何かを伝えたいように。



私の本業は

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